ひかりをすくう

ひかりをすくう

「猫泥棒と木曜日のキッチン」を読んだときからこれだけのレベルの作品が書けるのだったら一般文芸で書けばいいのに、と思っていたらいつの間にか新潮社で本を出していた。今までライトノベル出身の作家がライトノベル以外の場で作品を出すときはファンタジーか SF かミステリーと相場が決まっていたので、僕の好きな日常形の小説を出してくれたことが本当に嬉しい。しかも橋本紡は基本的に書くテーマが僕の好みに非常に合っているので、なおさらだ。

なんて言いつつも、姉はちょっと嬉しそうだった。こつこつ努力するポジションで頑張っている息子のことを誇りに思っているのかもしれない。派手に点を決めるフォワードは確かに格好いいけど、ひたすら走るサイドが哲っちゃんは好きだ。たくさん無駄に走るサイドが好きだ。

「ひかりをすくう」はパニック障害を患った主人公の再生の物語である。彼女はパニック障害に陥って仕事を辞め、田舎へ行き日常を過ごしていくことで回復していく。精神病に関しては素人なので話半分に聞いてもらいたいけど、パニック障害は役割への期待に応えなくてはいけないという緊張から生み出されている面がわりと大きいと思う。この役割への期待と言うのは明示的に示された期待だけではなくて暗黙的な期待も含まれる。この暗黙的な期待というのが厄介で人の言うことばかり聞くのではなくて自分で考えて行動してほしいと口にしながら、期待通りに動かなければ評価が下げられたり邪険に扱われる。一方で自立を求めながら一方で許容範囲が狭いというダブルバインドが生み出す窒息感が自分の中で空回りしながら増大していって症状を生み出すのではないかなあ、と個人的には感じている。

問題を解決するためには自分と同じような趣味・嗜好・思考・価値観・リズムを有しているグループとのみ付き合うか他人の評価なんて関係ないという強さを手に入れるか、であるが後者はなかなか難しい(言葉で言うのは簡単だけど)。その問題を解決するために自分自身(特に自分自身の無駄な部分)を許容してくれる存在が必要で、それが「ひかりをすくう」の中では主人公の恋人である哲っちゃんに集約されている。ただ勘違いしてはいけないのは他者の評価なんて関係ないという強さを手に入れるのは自分であるから、どんなに自分を許容してくれる存在があったとしても最終的には自分自身がそういった強さを手に入れることが肝要である。また、そういった強さを得るために他人を自分より下の存在とみなすのは論外であろう。自分自身の他者への許容という問題も絡んでくる。(余談だがバーチャルの世界で自分自身を許容してくれる存在に出会って癒され生きていくことの何が悪いんだ、という意見がたまにある。個人的な結論から言うとそれ自体には何も悪い部分はない。ただ現時点でのバーチャルな世界では自分が望んだ姿でしか「許容」が与えられないので、それが自分自身の他者に対する許容につながりにくいという問題は孕んでいる。自分自身は救われたいくせに自分自身が他者を救うなんて思いもしないことが問題になりそうな気がする)

「ひかりをすくう」は特別なロマンスもアクロバティックなアクションも何も出てこない。田舎暮らし、豊かな自然、おいしそうな食事、移り行く心情などが優しい視線で描かれていく。そこには血なまぐさいことは何一つ出てこない、ただの一個人の小さな小さな戦いには見えない戦いが描かれていく。しかし、間違いなくそこにはある種の「最前線」が描かれている。