オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)

月経とかセックスとか妊娠とかそういった身体に近い部分を拒否せずに受け入れることによって、自分自身の軸を見つけ出しましょう、という本。

二点、思ったことを書く。

男性である僕は女性の身体性が良く分からない。最低限の知識みたいな物は持っているが、全然、全く分からない。ずっと男性だけの家で住んでいるので、様変わりしたトイレと風呂場と洗面所の光景を見て酷く驚いたこともある。

だから、この本を読んで本の内容を理解したとしても僕は誰かにこの本の内容を伝えることは出来ないだろう。この本の内容を理解する、いや、理解しなくても良い、この本を通じて女性の身体性に思いをはせるだけで何も考えずに接するのと全く違うだろう。でも、結局「あなた、子供産むことが出来ないじゃない(だから、子供産むことで自分の軸が見つけられるって言えないよね)」と言われた瞬間に僕は頷くほかない。

だから自分の軸を見つけられない、かつ身体性を取り戻すという古風に見えるその方法へ身を委ねられない女性に男性はどのようなアクションを起こすべきかという大きな問題は残されている。多分、著者がこの感想を読んだら女性はそういった意味で強いから放っておけばいいのよ、と言うような気がするが。

二点目。

だからといって僕はこの本の書き方に諸手をあげて賛成する気にはなれない。女性性を否定している人々への挑発に近い内容になっている(タイトルからして挑発的)からだ。これでは女性性を肯定するがゆえに迫害されている女性へのアジテーションにしかならないような気がする。これに納得し、行動を起こすのは女性性をある程度肯定している人だろう。この本を読んで考えてほしいと著者が考えている女性性を否定する人には決してこの本の内容は伝わらない。途中で投げ出してしまうだろう。

例えば、女性性を否定する人に自分の女性性を考え直してもらうには、女性性を否定する人の言葉を使いながら同時にその言葉の支点をずらしていくことによって自分のフィールドへ持ってくるなどの「戦略」が必要になる。

二項対立の論戦は分かり易いが、結局どちらへ行っても一本のレールの上でしかないという欠点がある。それを回避するための「戦略」は必要だ。そうしなければいつまで経ってもある方向へ行って、揺れ戻しが来て反対方向へ進んで、また揺れ戻しが来て反対方向へ……と徒労に終わってしまうだろう。