国境の南、太陽の西

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

昔はダブル村上の中では圧倒的に村上龍の方が好きで、村上春樹はむしろ苦手な方でした。唯一楽しく読めたのは「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」であの終わり方はなかなか面白かった。でも、例えば大学時代に読んだ「ノルウェイの森」なんかは遠くに投げ捨てたかった記憶がある。

今、思い返してみると大学の最先端キャンパスとは名ばかりの田舎キャンパスに閉じこめられ、そこにいたのは自分たちがファッショナブルであると信じ切っている学生達でしたーということに対する恨み辛みが込められているような気がしないでもない。その頃の僕にとっての村上春樹は都会的で泥にまみれていなくて、女の子にもてまくって全ての物にはクールに距離感を保ち、「やれやれ」と呟きながら物語というゲーム盤の上で駒を動かして遊んでいるような感じがする作家だった。そして、周りにはクールでもなければ都会的でもない学生達が政治とか経済の基礎をゲーム盤に仕立て、駒を動かしていることに得意がっているような感じだった。きっと村上春樹には「お前がいるから勘違いする奴らが増えたんだ!」とその当時子供だった僕は怒鳴りたかったのだろう。はっきりいって筋違いな怒りであるが。

でも、最近の作品を読んでちょっと印象が変わってきた。昔は幻想なんてないという幻想にすがっているような人間を描いていたが、最近は本当に幻想がなくなった人間がそれをどのように許容し、生きていくかを描いているような気がする。本作もちょうど幻想を無責任に量産してきた時代から幻想をどのように扱えばよいか悩んでできた作品だろう。その苦悩がストレートに表現されていて、素直に胸を打った。

(注:誤解がないように言っておくが、幻想を無責任に量産することが悪いことではない。幻想をどのように受け取り、どのように扱うかは受け手次第であり作り手には基本的に責任はないからだ。何が受け手にどう影響するか作り手には判断できない以上、幻想を作る責任まで言及しては何も作品が作れなくなってしまう。だが、そこで責任がない=何も考えなくとも良い、と受け取ると作り手の作るという行為が全てゲーム的になってしまう。個人的には何もそういったことを考えない作り手よりそういったことを考える作り手の方が好きだ。)