果てしない欲望

SIDE:A 海辺のカフカ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)
海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

15 歳の少年にとって何が一番の救いになるか?個人的には様々な穢れを許し、認めてくれる存在がいることが一番の救いとなると思う(余談だが、一番の糧となるのは 30 歳くらいの尊敬できる大人の男性と付き合うことだと思う)。 15 歳の頃は自分がとんでもなく汚れた欲望を持っているということとそれでも止められない自分の欲望のアンビバレンツに苦しむ。少なくとも僕はそうだった(最もわかりやすい例だと性欲)。女性を従属させ、蹂躙することが当たり前だと感じている存在にとっては性欲に関するアンビバレンツとは無縁だったのかもしれないけど。

作品に登場する「田村カフカ」君にはそういった穢れを許し、認めてくれる存在が周りにいる。それは非常にうらやましい話だが、同時に彼は何の努力もなしにそんな存在を呼び寄せたわけではないと気づく。肉体を鍛えることが出来る、孤独に耐えうることが出来る、大人に好感をもたれるような技術を身につけている、そして、自分の内面を相手に伝えることが出来る。これらのことを 15 歳の段階で身に付けられるのは並大抵の努力では無理だ。まるで奇跡のような存在だろう。

少なくとも彼はこれから「世界」と戦っていける。彼が持っている欲望は正しく発露されていく。「世界」の中に入っていける。物語から抜け出しても大丈夫だし、物語に取り込まれることもないのではないかと思う。そして、そのような存在が奇跡のような存在なのだとしたら、一般の存在がどのようにしたら物語に取り込まれずに済むかといった問題をこれから村上春樹は探求し続けなければいけないと感じる。

SIDE:B グローバルメディア2005 オタク:人格=空間=都市

http://www.syabi.com/topics/t_otaku.html

都市がある制御された空間を形成し、空間が制御された人格を要求し、人格がそのような振る舞いを強制するのが普通の都市空間とすれば、秋葉原は全く逆のステップ、つまり人格が空間を形成し、空間が制御された都市を形成した都市だろう。もうちょっとわかりやすく言えば都市が欲望を規定するのではなく、欲望が都市を規定したといえば良いのだろうか?

つまり、秋葉原は欲望がそのまま結集した都市であると言える。そのあからさまな都市のありようはある種の人間には深い安堵を、ある種の人間には深い疲労感を与えるだろう。欲望が都市を規定しようとして失敗した例として渋谷があげられる。欲望が熱病のように蔓延していったあの都市は急速に冷めていき、今は気だるさが全体的に蔓延しカオスがところどころに発生しているように僕には感じる。

さて、秋葉原はどうだろう?それは未だ答えはわからない。多分、それはオタクが今と似たような欲望をずっと持ち続け、それが都市を形成させ続けられれば可能なのだろう。個人的には理由を探求しない欲望は変な方向にゆがむか、飽きられて潰えるだけなので、本来オタクがやるべき作業はその欲望の根源を探求することだと感じているのだが、もし、秋葉原がずっと続いていくのなら確かにそこに集う人々は新しいヒトと言っても良いかもしれない。